2015/03/30

見せる対話と見せない対話と

このところ、気になっているのは「見せる対話」についてだ。
端的にいうと、新聞記者のインタビュー的な問答のやりとりと、「徹子の部屋」のような、観客、第三者の存在を前提とした問答(見せる対話)とでは、自ずと質が異なるはずだ、ということ。
Facebookはもとより、あらゆるコミュニケーションは第三者を想定したものとそうでないものとがある。その違いは、些細なようでとても大きな意味をもつ。そして往往にして、対話のズレもまた、それらをめぐる想定のズレから始まるような気がしてならない。