2015/06/12

外国人生徒が授業を日本語で学ぶとはどういうことなのか?~JSLカリキュラム~

研修3/4日目。外国人生徒への日本語指導研修も佳境に入ってきた。
今日はJSLカリキュラムに基づいた教科指導について、グループで授業プランを提案するというワークショップを行った。




JSLとは(Japanese as a second language)、つまり「第二言語としての日本語」話者のことを指す。多くの外国人がそれにあたる。「JSLカリキュラム」とは外国人生徒が日本の学校教育に円滑に参加していくためのカリキュラムのことをいう。このリンクを参照

私なりのとらえでざっくりと説明すれば、いわば日本語によるイマージョンプログラム。
教科内容を教えつつも、教科の学習に必要な日本語も教えていくという教育プログラムである。
さらに具体的にいえば、たとえば算数の関数の授業であれば算数の内容のほかに「……が……のとき、……に変化します」のような日本語の話形もついでに指導を入れていくような手だてをとる。(上記写真から、授業で必要な日本語の話型が示されているのが分かるだろう)
これは、裏を返せば、授業外で交わされている「おしゃべり」と、教室で交わされている「発言」とには、公的私的というくくりだけでなく、認知的にも大きな違いがあるということを表している。
日本人にとっては当たり前のことであっても、外国人にとっては、教室で日本語を使って知的活動をするというのは相当な負荷のかかる活動でもあるのだ。
授業などの知的活動でしか使わない用語、言い回し、話形等々。
外国人が授業に参加するとはこれほどたくさんの「カベ」があるのだということを改めて思い知った次第である。(もちろんこれは外国人に限った話ではないだろう)
JSLカリキュラムではそういう「知的活動に必要な日本語」についての膨大な研究の蓄積がある。外国人指導にだけ用いるのはもったいない。

JSLカリキュラムの研究では、授業での生徒と教師の日本語のやりとりのすべてを分析し、それをAU「Activity Unit」(活動の単位)として整理している。
それらの学習活動や、付随する話形をJSLカリキュラムでは組み合わせて授業を構成していく。
学習活動を構成している学習行為を「AU」と呼んでいる。このAUとは「Activity Unit」(活動の単位)の略であり、学習活動を構成している一連の下位活動である。
トピック型の授業の場合、このような下位活動には、たとえば次のようなものが考えられるという。
「体験」の局面:知識を確認する、経験を確認する、など
「探求」の局面:比べながら観察する、変化を観察する、など
「発信」の局面:表現する、判断する、など
このAUの研究もものすごく充実している。リンク参照!

さらにさらに、各教科ごとの学習活動とそれに付随する言語もAUとして設定されている。
次のリンクをたどり、膨大な研究の知見を見てみて欲しい。
社会AU
算数AU
理科AU

ちなみに国語は全てがAUのようなものなので、代わりに学習スキルが例示されている。

たとえば、読むこと指導における固有な語彙として以下が例示されている。
こういう学習用語を、国語を教えるときにどの程度、教師は自覚的に定義し定着させようとしているだろうか。外国人生徒への指導ではそれが行われつつあるというのに。(学習指導要領でさえ、それらの学習用語の整理は明確にされていない)
「読むこと」の指導・授業で使われる、固有な語彙
文、文章、段落、さし絵、お話の筋、詩、物語、絵本、説明文、作者、登場人物、主人公、読み聞かせ、題名、筆者、中心人物、主要人物、せりふ、内容、事柄、感情、感動する、心に残る、音読、朗読、感想、ストーリー、要旨、心情、など

これらのJSLカリキュラムはAU、学習言語の研究はそもそもは第二言語話者のための学習支援という文脈で開発されたものだ。
しかし、この研究の知見は日本語を母語とする話者にとっても、つまり普通の生徒の学習にとっても参考になるところ大だろう。
つまり何が言いたいかというと、授業で知的活動をするということは、知的活動に特有の日本語の言い回しや語彙があり、それらは日常の言語生活だけでは獲得されにくいということがこれらの知見から分かると言うことだ。
外国人生徒が日本の学校でどのように学んでいくか考えるということは、私たちの授業行為や、学習者の知的行為の自明の前提を問い直すということでもある

「自然言語と第二言語ではその習得の過程が異なる」という第二言語習得理研究の知見からJSLカリキュラム(第二言語としての日本語話者のための授業)が生まれた。JSLカリキュラムでは、認知操作、知的思考活動に必要な日本語(学習言語)を抽出して教えるという方法をとっている。
つまりおしゃべり(生活言語)をさせているだけでは学校の授業にはついていけない。学力は高まらない(学習言語は獲得できない)ということを表している。
これは、はたして日本語を母語としない学習者だけのものなのだろうか。
日本語を母語とする子どもたちも、生活言語と学習言語を使い分けて認知活動を行っているのではないだろうか。
だとしたら何らかの手立てで学習言語を獲得させる手立てが必要だろう。
「好きに話していいよ」「好きに書いていいよ」でそれらの学習言語が獲得され、育つのだろうか?
ホールランゲージ理論はこれにどう答えるのだろうか?

「学習言語」について調べてみたら以下の文献が見つかった。
これらのそのうち読んでみようと思う。



「9歳の……」の本は、聾学校の先生による「学習言語」習得指導の方策。
聴覚障害教育の現場でも「学習言語」に脚光が浴びているようだ。